2009年05月30日

「日本のガラパゴス化問題」は市場の問題ではない(2)

(1)の話と全く同じではないですが、関連した話。
「日本人は、日本語を世界の公用語にする努力をすべきだし、現在事実上世界の公用語になっている英語についても日本語英語を生み出して行くべきだ」と思っています。

まず、ヴィトゲンシュタインによれば(って、最近やっとちょこっと分かっただけだから、引き合いに出すのは恥ずかしいのですが)、思考はメタレベルで言語習慣に規定されます。つまり、自らの言語を公用語化させることが出来た人間集団は他者に自らの思考習慣を押し付けることが出来るわけです(ちと暴論になっているのは認めますが)。また、そこまで考えなくても、ヒイヒイ言いながらやっと議論しようとしている人々に対して、実際に自分が自由自在に操れる言語を使って議論をするのはかなり有利です。また、自らの母国語の出版物などが全世界で読まれているほうが、思考方法についての浸透力は高くなります。
だから、日本語を公用語化するように努力すべきだし、それまでも、英語は日本人が使いやすいように変えていくべきだというのが僕の主張です。実際、今、日本人が学校で習っている「英語」は実は「米語」です。アメリカの方言ですね。


さて。ここ数年で、こんなことを経験したり見たりしました。

1)荻原健司が、テレビで「外国人はずるいですよ。日本人に不利になる、自分達に有利になる、そんなルール改正をするんですよ。」と言っていた。
※ 一スポーツ選手としての分には可哀想だと思う(僕自身、彼を応援しておりました)。が、彼は今国会議員。「僕、こんな風にがんばって、日本人に有利なルールに変えたんですよ!」って胸を張れる人がなるべき職業に彼が就いてしまって、日本の国会はこれで大丈夫なんだろうか?というのが今の僕の気持ちです。

2)「インターネットの共通語を日本語にするにはどうしたら良いか?」とmixiで書いたときに、誰もアイデアを出してくれなかった
※ 「インターネットは米軍のツールとして作られたものだから、英語で当たり前だ」というコメントもいただきましたが、ドイツで造られたはずの車の部品の名称、誰か5つ以上ドイツ語で言えますか?(ドイツ語の勉強をしている方は除きます) 「インターネットは米軍のツールとして作られたもの」という情報まではこのコメントの前でも情報として僕も共有しているわけで(パソコンにそこそこ興味があればおそらくかなりの方が知っている情報だと思います)、問題はそれが何かの行動やらアイデアやらを制限する材料足りえるか否か、ということ。「今、英語でやり取りしている外国人がわざわざ日本語の勉強をするメリットがないから日本語が公用語にならないんだ」というのが日本語が公用語にならない理由だと僕は思っていて、そこに開発のスタートが米軍だったということは影響しないと思っています。
このコメントをいただいた方のお人柄自体は尊敬しておりますので、申し添えておきます。大事なマイミクさんです。また、マイミクさんの仲間内でも人柄が尊敬を受けている方です。ただ、そういう方でも、「日本人としての常識的発想」から見るとそういうふうになるんだなぁ、と。

3)ブッシュ時代のアメリカが戦争をし続けていたことについて、mixiの某コミュで批判していたが、感情的なものだった
※ 細かい内容は忘れましたが、国際法にどのように反しているのか、全く説明ナシでした。「国際法に反していないけれども許せない」ということであれば、「国際法をどのように変えていくべきか?」と議論したら建設的ですよと書き込んだのですが、「だからここで批判しているのです」と。個人的な好みを主張することが国際法を立法・改正することになる、と、いうムードでした。もちろん、実際には国際法はこれでは変わりません。
立法では、「1)規範としての組み立て 2)立法過程を掌握→説得または脅す」の2段階が少なくとも必要です。ただし2)の過程で脅しを使ってしまうことは、「権力リソースを使ってしまう」ことにつながります(この表現は僕独自の表現なのかもしれませんが、簡単に言うと、従属者に無理をかけすぎると、反抗されてしまう、ってことです)。
規範としての組み立ての部分は、少なくとも、更に解釈論からの発展と、哲学レベルでの掘り起こしとがあります。
実はこれらは、国内立法でも必要なスキルです。国内立法でこれらの努力を国民がしてこないで、「官僚の発案→国会での立法」に任せっきりで自分で考えてこなかったため、ネット上での議論がただの気晴らしになってしまっている(無意味である)のだろうな、という気がしました。



え〜っと…、長くなったので、以上の羅列で。
posted by ベドウィン・ピエロ at 22:05| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「日本のガラパゴス化問題」は市場の問題ではない(1)

日本市場でしか通用しない電化製品を指して、「日本市場のガラパゴス化」という話を最近よく目にします。特に、携帯電話。日本市場に特化した製品だけが流通してしまっていて、日本の製品がドンドン世界に通用しなくなっていく、という問題です。
よく考えると、これって変な話。「ラベリング」の恐ろしさを感じます。
最近こそ日本経済が世界経済に占める割合は落ちてきましたが、つい先日まで、日本経済が世界経済に占める規模はアメリカに次いで2位でした。世界経済の6分の1くらいを日本が担っていた時期もあるのです。アメリカに比べると確かに小さかったけど、アメリカ以外の国々よりも断然大きかった。随分大きな「ガラパゴス」です。
もし、「ガラパゴス」ではなく「新大陸」だと名付けられていたら、受ける印象は全然違ったでしょう。新大陸なら、新大陸のまま発展する道もありそうです。

ただし、「ガラパゴス化」の問題は、間違いなく存在していると思います。でも、その理由として「日本では世界に通用しない独自のルールで市場が成立してしまっていて世界に通用しない」とされていると思うのですが、これは間違いだと思うのです。
本当の問題は「日本人は『ルールは自分に有利に作っていって他者に押し付けていくものだ』ということを知らない」ということにあると思います。
ルールを自らに有利に作ったものが生存競争上有利であるのは言うまでもありません。にも関わらず、与えられたルールを忠実に守ろうとする。これは愚の骨頂です。
いや、もちろん、ルールを守る必要はあるのです。そうでないと「ならず者」になって、他者から一斉に攻撃を受けます。あっという間に潰されるでしょう。
だから、既存のルールは守りつつ、かつ、自分に有利にルールを変えていく必要があります。日本人は、そういう能力についての教育が全くされていないんだなぁ、と感じるのです。


この問題と関連したことがあるので、(2)として書かせていただきます。
posted by ベドウィン・ピエロ at 21:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月25日

先週の日記について再考。

先週の日記を、お二人書き込んでいただいてまともにお返事しないまま1週間温めてみました。

1)「過失犯が重罰化されている」ことについての母数
エファさんのご指摘どおり、確かに過失犯についての重罰化のケースの母数が足りないかもしれません。交通事故の話と、滝川市の生活保護詐欺被害側(=滝川市職員)に対する刑事立件(断念したけど)くらいの話なので。滝川市のケースは、僕から見たら「過失事件の被害者を背任の故意犯にでっち上げてまで社会に迎合しようとする検察」の事件にしか思えないけど、一応故意犯として扱うべきなのかもしれないし(検察が本気で捜査していたのだとしたら、レベルが落ちているとしか言えない)。

2)結果無価値だと考えたら重罰化と言えないのではないか?
まぁ、確かに日本の「行為無価値」は世界では「行為無価値よりの結果無価値であって、あくまで結果無価値の一変種」だという話は聞いたことがあるのだけど、一応判例は行為無価値で考えるってことでよかったのではなかったっけ?(司法試験組が、勉強を重ねるごとに次々に行為無価値を捨てて結果無価値に走って行ったのは数多く見ているけど。)
結果無価値だと今回の判決が重すぎではないとしたら、「不幸な人間(人を殺したくないのに過失で殺してしまった人間)を、より不幸にする(=重罰に処する)考え方である」ってことで、結果無価値の考え方は否定されるべきだと思うのだけど…まぁ、結果無価値の論者の方から見ると「過失犯の犯人が不幸か否かは関係なくて、結果だけを見て裁けばいいんだ」と言うのでしょうね。この部分を論駁するためには、メタレベルで話をすることがやはり必要になるのかもしれません。「友愛」の概念からそれが出来るような気がします(もっと練らないといけないけど)。
ちなみに、今回取り上げたケースは、普通の路地だと思っていたら、そこに幼稚園の行列があったために被害が極端に大きくなったわけで、通常の予測の範囲から言えば、結果無価値の視点から言っても被害者がそう多くないケースを元に考えることも出来るんじゃないかな、って思ったりもしました。だから「結果無価値ですらなく、単なる結果責任なんじゃない?」と。まぁ、「閑静な住宅街の路地だからこそ、幼稚園の行列などが頻繁に歩いているはず」ってことが言えるなら別なのだけど(そして、それを何の統計もなしに裁判官の思い込みで「ある」とか「ない」とか言い切るのが「こんなのソクラテス裁判の延長じゃないか」と思うのだけど。)

3)過失事件での被害の大きさと行為無価値
過失事件で被害が大きかった場合に、それが規範違反の程度が大きかったためであれば処罰が重くなるのは当然だと思います。たとえば、通常誰も通らない山道を制限速度100キロオーバーで走って5名の死者を出す人身事故を起こした場合と、午前8時ごろのスクールゾーンを100キロオーバーで走って5人の死者を出す人身事故を起こした場合とでは、明らかに後者のほうが罪が重くなると思います。ただ、結果無価値でも「被害発生の危険を惹起したことが処罰根拠」だと思っていたのですが違ったっけ?(そうだとしたら、行為無価値と結果無価値とであまり変わらなくなると思うのだけど…。)

4)自動車政策の遅れをカバーする法制としての重罰化
僕としては「不幸な者をより不幸にする」政策には反対です。「100%ミスをしない人間」なんてのは居ないわけで、重罰化しても事故は減らないと思う。それよりも、既に一部の国産高級車で使われ始めているソナー装置の全車種義務化とか(きっとアメリカが反対するんだろうけどね)、ハンドルを握らずに済む様な公共交通機関の整備とか(自動車業界から波及する不況が発生しそうだが)、何か別の方策でやるべきなんじゃないかな、って思うのだけど、いかがでしょうか?

5)カントと応報
量刑の歯止めのための応報刑、ですか。そこまで勉強しておりませんでした。
時間を作って勉強しなおします。正直、恥ずかしい…。




以上、正直いろいろと穴のある日記を書いてしまったけれども、そのせいで、パソコンを触れない平日の間ときどき考えることになって、ちょっと考えが深まったかもしれません。最近、「平成経済20年史」という新書(幻冬舎新書103/紺谷典子)を読んでいたのだけども、それを読みながら次に打つべき一手を考えているとき、友愛の概念が割とずっと頭によぎっておりました(しばらく追求しようと思っております…日記に書けるレベルまで行けるか分からないけど)。
posted by ベドウィン・ピエロ at 00:56| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月18日

刑事裁判の重罰化とfraternty(友愛)

タイトルで書いたところでスペルを間違っているような気がしますが。
大学のときに国際統合と民族紛争(正確には「国際統合による民族風葬の解決」)について勉強していたとき、友愛の概念の重要性に気がついたのですが、刑事裁判での重罰化の流れを考えていたときに、ふと友愛の概念の重要性を思い出しました。

まず、今のままでは刑事裁判での重罰化の流れはいつか揺り戻しが来てしまいます。なぜかというと、すべき重罰化の方向を間違っているから。
今の刑事裁判では、「故意犯と過失犯では違う」という根本的な部分が無視されているのです。重罰化すべきだったのは今まで被害者を無視して軽くしてきた故意犯についてのみ。過失犯については、重罰化してはいけないのです。
なぜか?
それは「人間、誰でも過ちは犯すから」。刑罰について考えるときには、既に使い古された言葉です。
では、なぜ故意犯では重罰化すべきなのか?この辺を考え出して、「あぁ、結局は友愛の概念の問題なのだ」と気がついたのです。

過失犯を裁くときには、過失犯もある意味被害者であることを忘れてはいけません。もちろん、責められるべき部分があって、だからこそ刑罰を受けるのですが、社会構成員皆が「明日は我が身」なのです。
一方、故意犯については、「明日は我が身」になるのはあくまで被害者として。大学の授業では人間いつ加害者になるかもしれないというような話を前提にしているのですが、通常は故意犯の加害者にはなりません。もちろん、複雑な生い立ちがあって人格が破綻してしまって…というようなケースはあると思いますが、社会構成員の総体として甘く判断してあげるべきと思うケースについては個別に救ってあげれば良い訳で、「一般的に赦してあげよう」などというのは、被害者を2重の被害にあわせているだけなのです。国家は被害者の自力救済を否定しているわけですから、被害者が自然権上持っている応報権を確実に満たしてあげる必要があるのです。
(懇話休題。以前、憲法を勉強している後輩とこの「自然権上の応報権」の話をしたときに「そんな権利、聞いたことがない」と言われてしまった事があるのですが、聞いたことがあるかどうかと自然権上認められるか否かは別の話で、「自然権=自然法に基づく権利」、「自然法=政府による介入無しでも社会が社会として維持されるために必要とされる規範」と定義すれば、応報権を自然権として認めないと社会が反規範的勢力のせいで崩壊してしまうわけです。ちなみに、法学部での自然法学習の弱さについては、法定犯と自然犯の区別がつかないことを特に非難されないことでも見て取れるのですが、法定犯と自然犯とでは、特に法の不知に関して非難の度合いが変わってくるはずです。)

さて。「なぜ過失犯まで重罰化されてしまったのか?」について考えて見ましょう。僕の考える原因は2つです。
1)エリート主義の放棄
 法律家は法律についてのエリートであるのに、国民の感情に迎合してしまっている。一見民主主義的だが、エリートとしての責任の放棄ではないのか?エリートが十分に国民に説明して、十分に考えた後の感情でないなら、尊重する必要がどれだけあるのか疑問である(もちろん、このように考える場合、エリートの側には国民に説明していく義務がある。そう考えない場合、国民の側はエリートに対して強い反感を持ってしまう。)
2)抽象的符号説を否定している
 たとえば、飲酒運転で死亡事故を起こした場合に該当になる(場合がある、ということになりますが)危険運転致死罪は、かなりの重罰です。過失犯であるにも関わらず、たいていの故意犯の犯罪よりも重く罰せられる。「人が死んでいるから重く処罰するんだ」というと一見納得できそうですが、過失致死罪は一番重くても罰金刑。だから、やはり反規範性の強さが処罰の重さにつながっていると考えるべきです。はっきり言えば「飲酒運転しているんだから、死亡事故を起こすことを容認しているんでしょ?」っていうことで、未必の故意を認めているのだとおもうのです。これって、抽象的符号説ですよね?でも、一般に今までガンガン批判してきた抽象的符号説を正面から立法化しましたとは言いにくい。だから、「全部重罰化している」としているのでしょうが、詭弁です。でも、別に判例変更したわけではないから(それこそ、変更していないから危険運転致死罪が立法化されたわけですし)、結果パッチワークのような法律運営になっているように見えます。

ここで、「友愛」の概念を持ち出してみると…「誰を(より重視して)いたわってあげる必要があるのか?」という視点が出ると思うのです。その上で、「本当に今後も法定的符号説を採るべきなのか?」「過失犯まで重罰化すべきなのか?(抽象的符号説を採ればスッキリするのではないか?)」といったことを真剣に考えるべきなのではないか、と思います。


え〜…もう寝なくてはいけないので、中途半端な感じですが(特に、いろんなタームの説明を端折っているし…)、とりあえず今日はこんな感じで筆を置きます(これじゃタダのメモだ…)。
posted by ベドウィン・ピエロ at 01:31| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

ヴィトゲンシュタインって凄いんだろうか?

(以下、哲学に興味がない方にはまったく面白くない日記になります。)

「ヴィトゲンシュタインって凄いんだろうか?」って書くと「凄いに決まってるだろ!」って叱られそうですが。
ヴィトゲンシュタインも、トマス=アクィナスも、デカルトも、みんな同じことを言っている気がするのです。要は、「どこまでは思考の根拠があって、どこで思考の根拠についての追求を停止しなくてはいけないのか?」という話で、その根拠をさして、ヴィトゲンシュタインは習慣といい、アクィナスは神といい、デカルトは思考している自分という。結局は「この辺で終わっとこうや」って話では?と思ってしまう自分は哲学に向いてないんでしょうね。
実は、この問い、年賀状で3人の方に質問したのですが、まだ返事をいただいていなかったのです。で、日曜日に結婚式2次会でそのうちの1人に面と向かって質問したところ、どうせ結婚式で会うからそのときに回答しようと思っていたとのこと。
で、彼の回答は、やっぱり違うというもの。現代から見たら同じに見えるかもしれないが、神を克服したのは大きい、と。
そこで、こう喰い下がってみました。「神を殺したのは、ヴィトゲンシュタインではなく、ニーチェとキルケゴールでしょ?」
彼曰く、神は死んだのではなく、身近に降りてきただけではないか、と。ま、それは本題ではないのですが、いずれにせよ、彼によれば古代ギリシャのプロタゴラスを超えた人はまだ出ていなくて、プロタゴラスの掌の上をみんながゴチャゴチャこねくり回しているだけ、と。

ここまで来ると、ド素人の僕ではまったく話に太刀打ちできなくなりました。プロタゴラス、「万物の尺度は人間である」っていう相対主義でとても有名ではありますが、この言葉以外に僕には情報はほぼ0。時間を作って古代ギリシャの哲学についての本を読み返してみる必要がありそうです。

結婚式から帰って家でかみさんにこの話をすると、「よくそんな話が出来るもんだねぇ」と感心されました。
かみさん、大学の哲学科を出ているんですけど…。(俺、完全に独学だよ???)
posted by ベドウィン・ピエロ at 21:04| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人生初→大失敗

この日曜日、友人の結婚式に参加しました。
実は僕が縁で知り合った二人だったので、友人代表のスピーチをさせていただいたのですが

結果は惨憺たるもの。
結婚式でスピーチするのは人生初だったのですが、男性側の代表だから笑いを取っていかねば、と思ったのが失敗の元でした。緊張して頭の中が真っ白になってしまったし。5分くらいで、と思っていたのも、完全にオーバーしたし。
歌を歌うんだったら、1000人くらいの前でも多分全然平気なのですが。

お二人を心から祝福したかったのですが、かえって足を引っ張ってしまったなぁ…。G、Rちゃん、ごめんなさいね。
無理をしないで紙を読み上げつつ、普通にスピーチすれば良かったなぁ…。
posted by ベドウィン・ピエロ at 20:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月08日

あけましておめでとうございます。

皆様、あけましておめでとうございます。
って、すっかり松の内も終わってしまいましたが、とにかく今年もよろしくお願いします。

年末から年初にかけて、パソコンの調子が悪かったり体調を崩したり、という生活でした。年賀状も最後の1枚を今日書こうか、という状況です(くどいようですが、既に松の内は終わっておりますが…)。


今年の目標としては、金曜日と土曜日にブログをアップすること(本当はもっと色々あるのですが、ここではとりあえずこの目標を発表)。
もっと色々書こうかと思っていたのですが、「パソコンがいつハングアップするか?」という状況で書いているので、落ち着いて書けません(泣)。
まぁ、話を短くまとめる練習としては丁度いいのかも。
posted by ベドウィン・ピエロ at 23:22| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

あと2週間ほど、ネット不精になります

ブログに書き込みをしていただいたりしておりますが、都合によりあと2週間ほどネットに書き込み等控えさせていただきます。ブログのみでなく、メールいただいたりもしておりますが、この場にて、ごめんなさい!11月9日以降に順々にお返事などさせていただきます。急ぎの場合はそれまででも出来るだけお返事いたしますが。以上、申し訳ありません。
posted by ベドウィン・ピエロ at 22:43| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月11日

株、売り時のサインはあったんですね

ビジネスマンのための「数字力」要請講座」(小宮一慶/ディスカヴァー携書020)の影響を受けて、「景気指標」のコーナー目当てに、毎週月曜日の日経新聞朝刊をコンビニで買っています。本当は毎日朝夕配達してもらったほうがいいんでしょうが、月額1万円のお小遣いでそれをやってしまうと本が全く買えなくなってしまいますので、必要な月曜日朝刊だけ。
2ヶ月くらい前から買い始めたのですが、今思うと、最近の株価の暴落の指標はそこに充分に載っていました。何が載っていたかというと
貴金属は価格が下がっていない
石油は若干下がり始めているが、まだ充分に下がっているわけではない
・鉄に関するものは価格が上がっている
・鉄以外の卑金属は値段が下がっている
今思うと、株を全部売り払うのに充分な情報ですが、一昨日までは「中国の経済構造が卑金属→鉄にシフトしているんだろうか?」などと考えてしまっておりました。
で、ふと気づいたのです。
鉄は、今、最大手2社の鉄鉱石メーカーが合併して独占価格に近い寡占価格になっている。最近、日本の公正取引委員会とヨーロッパでは独占禁止法違反で調査をしている。ちなみに、独占禁止法違反の調査についての情報はどの新聞で知ったのかは忘れましたが、少なくとも合併の情報については朝日新聞には載っていました。別に日経でなくても。そして、そのせいで新日鉄が買う鉄鉱石が前年比90%アップを提示されている件も別の日に載っていました。
この1点を知ってさえいれば、鉄関連の諸価格が上がっているのは別に景気に関連したものではない、と言うことが分かります。だから、景気判断をする場合には除外して考えて良いでしょう(まぁ、経済に影響を与えるだけの取引があるにも関わらず実態よりも高い価格で取引されるせいで景気悪化の材料にはなりますが、それはひとまず置いておいて)。あと、石油も投機対象になっている状況なので、景気判断から置いておきましょう(鉄以上に景気悪化の材料になっているわけですが、値段が下がってきているから僕のような素人には判断が難しいです)。
そうなると、価格が加工品の需要に左右されやすく景気の実態を現しやすい卑金属は価格がかなり下がっている計算になる。
貴金属の価格が下がらないのは、卑金属の価格が下がってきてダブついているお金やら石油の値段が下がってきてダブついているお金やらが行き場を失ってとりあえず向かっているのではないだろうか?
結果、「景気の実態は冷え込んできているなぁ」って読めるわけです。

でも、僕は「中国が経済力が付いて構造変換があったのではないか?」などと辻褄を合わせに考え出してしまいました。全く間違いだったわけですよ。
いや〜、株に手を出していなくて、本当に良かったです。日経をかい出したのはリーマン破綻の前だったけど、そこまで読めなかった。

こうやって考えていくと「チャートだけを見て株取引をする」ってのはありえないですね。世界の状況が変わっていない場合でないと成立しないと思います。


ちなみに、個人で手を出した場合、キッチリと判断出来るなら、株を全部売り切って状況が良くなるのを待つ、ってのが出来るから、必ず利益を生み続けないといけないプロの方よりも有利ですね。投資信託なんかだと、「株を全部売り払って違う投機対象に変える」ってことは出来ないし、場合によっては「○○関連株」なんてところまで縛っていたりしますよね。そう考えると、プロの方って本当に大変だなぁ、って思います。
posted by ベドウィン・ピエロ at 19:40| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月08日

サブプライムローンについて考えていたら…

サブプライムローンについて考えていたら、ふと、大学生の時に受け入れられなかった民法の条文の根拠が見えてきました。
簡単に言えば、大学の先生方がこぞって間違っている、ってことなのですが。

サブプライムローンで問題になるのが、ローンの滞納があったときに債権が第三者に渡ってしまっているということ。そして、「サブプライム問題とは何か」(宝島社新書)によれば、ローン締結の際に、契約書の上に物を置いて重要な部分を隠したり、場合によってはあとで書き加えたりしたとのこと。それでも、詐欺による損害は「善意の第三者」(注:「善意=事情を知らない」であって、他人のためにとかっていう意味ではありません)には対抗できない。法学部出身者の方なら、この本のこの部分を読んでも、せいぜい「アメリカもやっぱりそうなんだなぁ」って終わりだと思います。
ちなみに、これが問題になるのは、詐欺師が支払い能力を持たない場合。「危険負担」と言って、「関係者のうち、だれが貧乏くじを引くべきか?」ってことです。

この「詐欺の被害者は善意の第三者に対抗できない」、一見当たり前のようにも思えますが、実は「脅迫の被害者は善意の第三者に対抗できる」ってのがあります。
なぜ違うのか?
民法の教科書では、「詐欺については、被害者側にも過失がある」と言うのです。おかしいのが、法学部の教室では、みんなこれを疑うことなく受け入れるんですね。
もちろん、これは間違っているわけです。ただ、歴代のお偉い法学者がみんなそう言っているから、なんとなくそれを受け入れる。それが延々繰り返されている。「詐欺については、被害者側にも過失がある」の根拠が無いのです。逆に頭が悪くて高校に行けなかった格闘家が法律を作る世の中が来たとしたら、詐欺と脅迫は間違いなく入れ替わるでしょう。何のことは無い、法学者が自分に都合の良い法律を作っただけ、担ってしまうのです。
だから、今まで僕は「法学者と法学部での官僚とが手を組んで維持している権力闘争剥き出しの条文なのだ」と考えていました。
が。
今回のサブプライム問題で分かったのが、「脅迫の被害は被害者がすぐに気づくが、詐欺の被害は被害者が気づくまでにかなり時間がかかる場合がある」ということ。時間がかかると言うことは、関係者が増えるわけで、「その取引、遡って無かった事にするから!」(まぁ、無効ではないのでこの表現は正確ではないのですが)ってのは民法が重視する取引の安全を著しく損なうのでしょう。
そういう意味でなら、この違いは必要になってくるのかな、と思います。今回のサブプライムローンがローン作成時に遡って無効になる、となると、証券市場は大混乱するでしょう。


さて。
理由が分かると、「もっと良い条文は考えられないか?」となります。「詐欺師から直接買った人物第1代までは対抗できる」とか「1ヶ月以内なら対抗できる」とか。逆に「こういう場合は脅迫のときでも対抗できなくしても良いのではないか?」とか。


こういう風に考えていくと、輸入したものであるはずの西洋近代法体系に乗った法律の条文を改良していくことが出来ます。
逆に、現実には。日本が輸出した法律って少ないんじゃないかな、って思います。
理由は、教室でみんなが「いい子ちゃん」になっているからだと思うのです。
僕が大学に入って2ヶ月で抱いた「不能犯(絶対に成立しない犯罪/硫黄をコーヒーの中に入れて人を殺そうとするなど)は何で不処罰なの?」ってのに答えてくれた人は未だ居ません。「これから再度犯罪を犯すかもしれないってこと?」と聞いてくる人は居ましたけど。唯一「日本では成立しない行為は犯罪の実行行為として見ないからだよ」って言ってくれた友人は居ましたが、それが不能犯なので、「なぜ犯罪の実行行為として見ないのか」を説明しないと説明にならないわけです。
結局、みんな「分かった」と誤解して法学部の川に4年間流されているように見えました(流れに棹差す自分は、さっさと法律に見切りをつけました)。
やっぱり、深く分かっていない人が各種の試験で高得点を取っていける仕組みがおかしいと思うのだけど…。



ちなみに、これ、法律だけの問題ではないと思っています。
以前、ネット上の日記で「アインシュタインの相対性理論、間違っているんじゃないか?」って描いたとき、いわゆる「トンデモ学問」に嵌って行こうとしているんじゃないかって誤解されたのを何となく感じました。
が、そうではなくて「前提になっている光速度一定の法則」の更に前提になっている「マイケルソン・モーリーの実験」の各種条件を理解している人、どのくらい居るんでしょうか?ってのが僕のそもそもの疑問なのです。「教科書に載っている」「偉い先生が正しいって言ってた」ではなくて、「○○に実験の条件が載っている」ってのを知りたかったわけです。簡単に言えば、1)完全な真空状態だったのか? 2)エーテルの流れの中に居るのであれば既に影響を受けていないのか? 3)光速度一定の法則の反証条件は何か? など(まぁ、マイケルソン・モーリーの実験自体は光速度一定の法則を立証しようとしたわけではなく寧ろ期待値が出なかったことでこの法則につながって行ったわけですが)。割と街中の書店を回ってみたつもりですが、論文に書けるレベルで実験の条件が描かれている本を見つけることは出来ませんでした。(ちなみに、ネット上でも見つけられませんでした。)
それこそ、mixiなんかだと詳しい人が教えてくれるのかもしれないけど(物理学のコミュニティにも入っていますので)、ごく一部の人を除くと「偉い先生が否定していなくて、国定の教科書にもそう載っていたから正しいんだと思う」って感じで受け入れているように見えます。
そういう生き方をしたら、楽なんだろうなぁとは思うのですが、僕には性格上できないんですよねぇ。
それで法学部なのに法律の勉強を諦めているようでは社会不適応なんでしょうけど。
posted by ベドウィン・ピエロ at 23:08| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする