2012年11月08日

不快な店員とは

皆様、お久しぶりです。

先日、平日の昼にスーツを買いにあるお店に行きました。
スーツを買ったところ、「もう1着どうですか?」
まぁ、なかなか買いに来れないし、ついでにもう1着買うか、と。
もう1着買ったところで
「靴はどうですか?」
「ネクタイはどうですか?」
「Yシャツはいかがですか?」

僕は「この店員は、僕にいろんな商品を売りつけようとしている」とたいへん不快になりました。
一緒に行った妻も、本当は僕のコートを見たいと思ってたのを、やめることにしたそうです。

この店員さん、「自分は2着目まで買わせることができた」と思っているかもしれません。
けれども、普通に考えたら、お店の評判を落とす店員であることは分かると思います。

ただし、「店員はお客から何か聞かれるまで黙っていろ!」と言っているわけではありません。
「お客様のために仕事をすべきだ」という、当たり前のことを言いたいのです。
今回、もしスーツを買った後に「他には何かお困りのことはありませんか?」と聞いてくれていれば、こちらの印象はずいぶん違ったと思います。
ただし、それを言うためには、本当に目の前のお客様のために頑張りたいと思うことが必要なのだと思います。
それが伝わると、客が「安物買い」で却って損しそうだと思って高い商品を勧めても「あなたがそういうなら・・・」ということになるでしょう。

なぜか分からないのだけど、おそらく正職員としてちゃんとした給料をもらっているはずの人からさえ、「このひとは僕のことよりも自分のことを考えている」と思うサービスを受けた経験が結構ありました。
最近、ネット通販の売り上げが伸びていて既存店舗の売り上げが落ちていますが、ネットという選択肢が現れた以上、当たり前のことができない店員の給料を払うためにお店まで行って高い給料を払うのって、やっぱり普通はありえないのではないでしょうか。
従業員を疲弊させるリストラや、厳しいノルマや、プレイングマネージャー制度の導入など、タコが自分の足を食べるようなことをする前に、「人に喜ばれることをした結果が売り上げなんだ」という意識を店員に徹底的に叩き込んで、良質なサービスを顧客として経験させるような研修を受ける、そういう研修が必要な時代なのではないかな、と思いました。

(※ 僕のことを個人的に知っている人の中には、「雇用の非正規化が日本のサービス業のレベルを悪化させる」と僕が常々言っていることをご存じのかたがいらっしゃるかと思いますが、正規職員でもお店の足を引っ張っている人がいるなぁ、と思っての記事でした。)
posted by ベドウィン・ピエロ at 22:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月28日

ブックマークの変更をお願いします!

皆様、お久しぶりです。
りんく先のおっつあんさんから、infoseekがHPのスペース提供を今月末でやめるとの情報を頂きました。
今のところ、ヤフーに引越しなのかな、と考えてはいるのですが、未定です。
ということで。
とりあえず、ブックマークについては
このブログのトップページである
http://bedouin-pierrot.seesaa.net/
に変更しておいてください。
新しいアドレスでサイトをアップしたら、またこのブログでご連絡します。
お手数、おかけします〜。
posted by ベドウィン・ピエロ at 22:48| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月02日

俳句って何なのか、分かるまでにかなり時間がかかった

皆様、こんばんは。
前回の日記を書いたときに全4話くらいで一気に書き上げようと思っていたのに結局力尽きたまま続きを書いていない駄目男でございます。
いや、全体を一回ワードで書いてそれを起こすとかしないと、とてもアップしていけないなぁ、と思ったりもしているのですが、とりあえず単純に時間がない、ということで。
ただ、主にナショナリズムの観点でしか見ていなかった、甘く見てもせいぜい社会統合について政治学原論的な分析しかしていなかった、「友愛」ってのを政策に落とし込むとどうなるかって考えてみたら、「あぁ、なるほど、だから自民党は右から左まで同居したのか」、「だから労働党が平等主義的に統治していた(あるいは、平等主義的な労働運動が力を持っていた)イギリスで新自由主義がいわゆる「イギリス病」の克服にプラスに働いたのに、日本では新自由主義は社会を破綻に追い込むことにしか役に立たなかったのか」なんて部分が見えてきて面白い状況になっています。何とか早く文章にしたいのですが、いつ完成することやら…。



さて、今日の本題です。
俳句というものを最初に知ったとき、「和歌をただ上の句だけで切ったもの」というイメージしかありませんでした。で、中学や高校で普通に国語の勉強をしていくうち、「なんで季語なんてものがあるんだろう?」と。
どうやら俳句というのは「綺麗な情景」を表現したいようだ、大学に入った頃でも、やっとその程度のイメージしか持っておりませんでした。まぁ、高校〜大学の頃は、和歌を作ったりするのは好きだったのですが、「17文字では何も伝えられない」と、俳句には全く興味がなかったので、イメージの持ちようも無かったのですけど。

ところで、僕の場合、芸術系のメインはもちろん歌(っていうか唄)。やっていうくちに「あぁ、芸術ってのは、世界観を伝えることに意味があるのだなぁ」と。だから、そこにある世界を伝える歌手よりも世界を作り出す作詞家や作曲家が偉いわけです。

つい最近、夫婦で川柳を作ってみていて(かみさんの結婚前の趣味に川柳を作るというのがありまして…僕も若い頃は和歌を作った時期はあるので、考えてみたら、似たもの夫婦なんですなぁ)、自分が作るものが川柳というより俳句に近いなぁ、と。もちろん、季語も使わないしちゃんと訓練していないから、俳句にはなっていないのですが、基本的に「情景を17文字で表現する」。17字しかないこともあって、主観を全く入れない。
芸術の意味が見えたときに多分俳句についても漠然と意味が見えていたとは思うのですが、この、夫婦で川柳を作っている最中に見えたのが「俳句とは、17文字で描く絵画であり、その絵画があらわす世界観がどのように伝わるかが芸術家の腕の見せ所であるという意味では絵筆で描いた絵画と違いが無い」ということ。絵筆で書いた絵画には一々文字で説明を入れませんよね。17文字の俳句で行うのもそれと同じで、ただ、更に絵ではなく17の文字だけを使う、と。

って、俳句を作ったことが無いので、あくまで推測なのですが、そんな感じで捉えているのであっておりますでしょうか?

※17文字、というのは、もちろんひらがなの場合。17文字というより17音ですね。
posted by ベドウィン・ピエロ at 00:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

「友愛」で政策は充分に見えてくる(1)

皆様、お久しぶりです。
全然パソコンに触れない環境に居て、全然日記を書けない状況になっております。いつも日記にコメントを頂く皆様、申し訳ありません。
今日も久々に日記を書くことになりますが、おそらくコメントを頂いてもレスをつけさせていただくのがかなり先になってしまうかと思います。重ね重ね申し訳ありません(と先に謝罪してしまっておきます)。


さて、本題です。
ここ最近、政治家の鳩山兄弟が、2人とも「友愛」という概念を振り回しております。対する周囲の反応は「友愛では政策が見えない」と冷ややかなもの。
ただ、大学時代、「国際統合による民族紛争の解決」をメインテーマに据えた結果、「友愛」の概念をサブテーマの1つに置くことになった人間としては、「友愛の概念では政策が見えない、というのはタダの勉強不足」と言わざるを得ず、また、「中途半端な政治家が不勉強なまま中途半端に友愛の概念を振りかざすことによって、友愛の概念が誤解されないか?」が大変心配になるところです。

政治を取り巻く種々のイデオロギーの中で、「右」とか「左」とかいう分類がされることがよくあります。「自由」と「平等」とは政治に関わるイデオロギーの中では、重要な思想なのです。が、この2つは、実は極端に追求してしまうと社会を分解してしまう作用があります。なぜか。それは、追及する最中に被害者が出てしまうからです。自由放任主義は餓死する貧民と犯罪被害者を生み出すことになるし、結果の平等を追求すれば共産主義に行き着いて他人より努力した分を収奪される人々が生まれてしまう。
さてここで、フランス国旗(三色旗:トリコロール)ではもう1つの概念を抱え込んでいます。それが「友愛」です。革命の旗印が自由と平等だけでは革命は成功せず友愛の概念を持ち出さなくてはならない、そう考えた先人の知恵は素晴らしいと思います。社会が結合するために必要になるのが、この友愛の感覚だからです。
人は、社会に生きていて、社会無しでは生きていけない以上、社会が欠どうするためのイデオロギーが必要なのです。


では、友愛が政策に結びつくとき、どうなるか? それは、
1)修正資本主義
 1−a)修正資本主義としての保守主義
 1−b)リベラル
2)修正社会主義(社会民主主義)
といった概念です。
(ちなみに、「なぜ共産党は他の政党と共闘を組みにくいのか?」の謎はこの物差しで解けます。)
友愛は「他人のことを自分のことのように大事に思える感覚」であると考えることが出来ます。これを政策に結びつける枠組みとしては、政治学・法哲学・哲学の勉強をした方なら、真っ先にロールズの「無知のヴェール」(自分が社会の中のどのようなポジションに居るのかは知らない状況だとして、満足が行くような政策を選んでいくべきである、とい趣旨の考え方(あまりにも大雑把な説明かとは思いますが…))を思い浮かべることでしょう。
実は、鳩山兄弟に対するマスコミの反応を見て、僕自身、「友愛の概念が政治の行動原理になった場合に、具体的にはどんな政策になるんだろうか?」と2週間考えてみたときに浮かんだのはロールズくらいでした。だから、最初は単純にいわゆるリベラルが友愛の概念にかなう政策方針だと思い込んでおりました。
が、更にあと2つ関わってくることが見えてきました。



長くなったので一旦筆を置きます。
posted by ベドウィン・ピエロ at 00:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月30日

「日本のガラパゴス化問題」は市場の問題ではない(2)

(1)の話と全く同じではないですが、関連した話。
「日本人は、日本語を世界の公用語にする努力をすべきだし、現在事実上世界の公用語になっている英語についても日本語英語を生み出して行くべきだ」と思っています。

まず、ヴィトゲンシュタインによれば(って、最近やっとちょこっと分かっただけだから、引き合いに出すのは恥ずかしいのですが)、思考はメタレベルで言語習慣に規定されます。つまり、自らの言語を公用語化させることが出来た人間集団は他者に自らの思考習慣を押し付けることが出来るわけです(ちと暴論になっているのは認めますが)。また、そこまで考えなくても、ヒイヒイ言いながらやっと議論しようとしている人々に対して、実際に自分が自由自在に操れる言語を使って議論をするのはかなり有利です。また、自らの母国語の出版物などが全世界で読まれているほうが、思考方法についての浸透力は高くなります。
だから、日本語を公用語化するように努力すべきだし、それまでも、英語は日本人が使いやすいように変えていくべきだというのが僕の主張です。実際、今、日本人が学校で習っている「英語」は実は「米語」です。アメリカの方言ですね。


さて。ここ数年で、こんなことを経験したり見たりしました。

1)荻原健司が、テレビで「外国人はずるいですよ。日本人に不利になる、自分達に有利になる、そんなルール改正をするんですよ。」と言っていた。
※ 一スポーツ選手としての分には可哀想だと思う(僕自身、彼を応援しておりました)。が、彼は今国会議員。「僕、こんな風にがんばって、日本人に有利なルールに変えたんですよ!」って胸を張れる人がなるべき職業に彼が就いてしまって、日本の国会はこれで大丈夫なんだろうか?というのが今の僕の気持ちです。

2)「インターネットの共通語を日本語にするにはどうしたら良いか?」とmixiで書いたときに、誰もアイデアを出してくれなかった
※ 「インターネットは米軍のツールとして作られたものだから、英語で当たり前だ」というコメントもいただきましたが、ドイツで造られたはずの車の部品の名称、誰か5つ以上ドイツ語で言えますか?(ドイツ語の勉強をしている方は除きます) 「インターネットは米軍のツールとして作られたもの」という情報まではこのコメントの前でも情報として僕も共有しているわけで(パソコンにそこそこ興味があればおそらくかなりの方が知っている情報だと思います)、問題はそれが何かの行動やらアイデアやらを制限する材料足りえるか否か、ということ。「今、英語でやり取りしている外国人がわざわざ日本語の勉強をするメリットがないから日本語が公用語にならないんだ」というのが日本語が公用語にならない理由だと僕は思っていて、そこに開発のスタートが米軍だったということは影響しないと思っています。
このコメントをいただいた方のお人柄自体は尊敬しておりますので、申し添えておきます。大事なマイミクさんです。また、マイミクさんの仲間内でも人柄が尊敬を受けている方です。ただ、そういう方でも、「日本人としての常識的発想」から見るとそういうふうになるんだなぁ、と。

3)ブッシュ時代のアメリカが戦争をし続けていたことについて、mixiの某コミュで批判していたが、感情的なものだった
※ 細かい内容は忘れましたが、国際法にどのように反しているのか、全く説明ナシでした。「国際法に反していないけれども許せない」ということであれば、「国際法をどのように変えていくべきか?」と議論したら建設的ですよと書き込んだのですが、「だからここで批判しているのです」と。個人的な好みを主張することが国際法を立法・改正することになる、と、いうムードでした。もちろん、実際には国際法はこれでは変わりません。
立法では、「1)規範としての組み立て 2)立法過程を掌握→説得または脅す」の2段階が少なくとも必要です。ただし2)の過程で脅しを使ってしまうことは、「権力リソースを使ってしまう」ことにつながります(この表現は僕独自の表現なのかもしれませんが、簡単に言うと、従属者に無理をかけすぎると、反抗されてしまう、ってことです)。
規範としての組み立ての部分は、少なくとも、更に解釈論からの発展と、哲学レベルでの掘り起こしとがあります。
実はこれらは、国内立法でも必要なスキルです。国内立法でこれらの努力を国民がしてこないで、「官僚の発案→国会での立法」に任せっきりで自分で考えてこなかったため、ネット上での議論がただの気晴らしになってしまっている(無意味である)のだろうな、という気がしました。



え〜っと…、長くなったので、以上の羅列で。
posted by ベドウィン・ピエロ at 22:05| Comment(7) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「日本のガラパゴス化問題」は市場の問題ではない(1)

日本市場でしか通用しない電化製品を指して、「日本市場のガラパゴス化」という話を最近よく目にします。特に、携帯電話。日本市場に特化した製品だけが流通してしまっていて、日本の製品がドンドン世界に通用しなくなっていく、という問題です。
よく考えると、これって変な話。「ラベリング」の恐ろしさを感じます。
最近こそ日本経済が世界経済に占める割合は落ちてきましたが、つい先日まで、日本経済が世界経済に占める規模はアメリカに次いで2位でした。世界経済の6分の1くらいを日本が担っていた時期もあるのです。アメリカに比べると確かに小さかったけど、アメリカ以外の国々よりも断然大きかった。随分大きな「ガラパゴス」です。
もし、「ガラパゴス」ではなく「新大陸」だと名付けられていたら、受ける印象は全然違ったでしょう。新大陸なら、新大陸のまま発展する道もありそうです。

ただし、「ガラパゴス化」の問題は、間違いなく存在していると思います。でも、その理由として「日本では世界に通用しない独自のルールで市場が成立してしまっていて世界に通用しない」とされていると思うのですが、これは間違いだと思うのです。
本当の問題は「日本人は『ルールは自分に有利に作っていって他者に押し付けていくものだ』ということを知らない」ということにあると思います。
ルールを自らに有利に作ったものが生存競争上有利であるのは言うまでもありません。にも関わらず、与えられたルールを忠実に守ろうとする。これは愚の骨頂です。
いや、もちろん、ルールを守る必要はあるのです。そうでないと「ならず者」になって、他者から一斉に攻撃を受けます。あっという間に潰されるでしょう。
だから、既存のルールは守りつつ、かつ、自分に有利にルールを変えていく必要があります。日本人は、そういう能力についての教育が全くされていないんだなぁ、と感じるのです。


この問題と関連したことがあるので、(2)として書かせていただきます。
posted by ベドウィン・ピエロ at 21:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月25日

先週の日記について再考。

先週の日記を、お二人書き込んでいただいてまともにお返事しないまま1週間温めてみました。

1)「過失犯が重罰化されている」ことについての母数
エファさんのご指摘どおり、確かに過失犯についての重罰化のケースの母数が足りないかもしれません。交通事故の話と、滝川市の生活保護詐欺被害側(=滝川市職員)に対する刑事立件(断念したけど)くらいの話なので。滝川市のケースは、僕から見たら「過失事件の被害者を背任の故意犯にでっち上げてまで社会に迎合しようとする検察」の事件にしか思えないけど、一応故意犯として扱うべきなのかもしれないし(検察が本気で捜査していたのだとしたら、レベルが落ちているとしか言えない)。

2)結果無価値だと考えたら重罰化と言えないのではないか?
まぁ、確かに日本の「行為無価値」は世界では「行為無価値よりの結果無価値であって、あくまで結果無価値の一変種」だという話は聞いたことがあるのだけど、一応判例は行為無価値で考えるってことでよかったのではなかったっけ?(司法試験組が、勉強を重ねるごとに次々に行為無価値を捨てて結果無価値に走って行ったのは数多く見ているけど。)
結果無価値だと今回の判決が重すぎではないとしたら、「不幸な人間(人を殺したくないのに過失で殺してしまった人間)を、より不幸にする(=重罰に処する)考え方である」ってことで、結果無価値の考え方は否定されるべきだと思うのだけど…まぁ、結果無価値の論者の方から見ると「過失犯の犯人が不幸か否かは関係なくて、結果だけを見て裁けばいいんだ」と言うのでしょうね。この部分を論駁するためには、メタレベルで話をすることがやはり必要になるのかもしれません。「友愛」の概念からそれが出来るような気がします(もっと練らないといけないけど)。
ちなみに、今回取り上げたケースは、普通の路地だと思っていたら、そこに幼稚園の行列があったために被害が極端に大きくなったわけで、通常の予測の範囲から言えば、結果無価値の視点から言っても被害者がそう多くないケースを元に考えることも出来るんじゃないかな、って思ったりもしました。だから「結果無価値ですらなく、単なる結果責任なんじゃない?」と。まぁ、「閑静な住宅街の路地だからこそ、幼稚園の行列などが頻繁に歩いているはず」ってことが言えるなら別なのだけど(そして、それを何の統計もなしに裁判官の思い込みで「ある」とか「ない」とか言い切るのが「こんなのソクラテス裁判の延長じゃないか」と思うのだけど。)

3)過失事件での被害の大きさと行為無価値
過失事件で被害が大きかった場合に、それが規範違反の程度が大きかったためであれば処罰が重くなるのは当然だと思います。たとえば、通常誰も通らない山道を制限速度100キロオーバーで走って5名の死者を出す人身事故を起こした場合と、午前8時ごろのスクールゾーンを100キロオーバーで走って5人の死者を出す人身事故を起こした場合とでは、明らかに後者のほうが罪が重くなると思います。ただ、結果無価値でも「被害発生の危険を惹起したことが処罰根拠」だと思っていたのですが違ったっけ?(そうだとしたら、行為無価値と結果無価値とであまり変わらなくなると思うのだけど…。)

4)自動車政策の遅れをカバーする法制としての重罰化
僕としては「不幸な者をより不幸にする」政策には反対です。「100%ミスをしない人間」なんてのは居ないわけで、重罰化しても事故は減らないと思う。それよりも、既に一部の国産高級車で使われ始めているソナー装置の全車種義務化とか(きっとアメリカが反対するんだろうけどね)、ハンドルを握らずに済む様な公共交通機関の整備とか(自動車業界から波及する不況が発生しそうだが)、何か別の方策でやるべきなんじゃないかな、って思うのだけど、いかがでしょうか?

5)カントと応報
量刑の歯止めのための応報刑、ですか。そこまで勉強しておりませんでした。
時間を作って勉強しなおします。正直、恥ずかしい…。




以上、正直いろいろと穴のある日記を書いてしまったけれども、そのせいで、パソコンを触れない平日の間ときどき考えることになって、ちょっと考えが深まったかもしれません。最近、「平成経済20年史」という新書(幻冬舎新書103/紺谷典子)を読んでいたのだけども、それを読みながら次に打つべき一手を考えているとき、友愛の概念が割とずっと頭によぎっておりました(しばらく追求しようと思っております…日記に書けるレベルまで行けるか分からないけど)。
posted by ベドウィン・ピエロ at 00:56| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月18日

刑事裁判の重罰化とfraternty(友愛)

とタイトルで書いたところでスペルを間違っているような気がしますが。
大学のときに国際統合と民族紛争(正確には「国際統合による民族風葬の解決」)について勉強していたとき、友愛の概念の重要性に気がついたのですが、刑事裁判での重罰化の流れを考えていたときに、ふと友愛の概念の重要性を思い出しました。

まず、今のままでは刑事裁判での重罰化の流れはいつか揺り戻しが来てしまいます。なぜかというと、すべき重罰化の方向を間違っているから。
今の刑事裁判では、「故意犯と過失犯では違う」という根本的な部分が無視されているのです。重罰化すべきだったのは今まで被害者を無視して軽くしてきた故意犯についてのみ。過失犯については、重罰化してはいけないのです。
なぜか?
それは「人間、誰でも過ちは犯すから」。刑罰について考えるときには、既に使い古された言葉です。
では、なぜ故意犯では重罰化すべきなのか?この辺を考え出して、「あぁ、結局は友愛の概念の問題なのだ」と気がついたのです。

過失犯を裁くときには、過失犯もある意味被害者であることを忘れてはいけません。もちろん、責められるべき部分があって、だからこそ刑罰を受けるのですが、社会構成員皆が「明日は我が身」なのです。
一方、故意犯については、「明日は我が身」になるのはあくまで被害者として。大学の授業では人間いつ加害者になるかもしれないというような話を前提にしているのですが、通常は故意犯の加害者にはなりません。もちろん、複雑な生い立ちがあって人格が破綻してしまって…というようなケースはあると思いますが、社会構成員の総体として甘く判断してあげるべきと思うケースについては個別に救ってあげれば良い訳で、「一般的に赦してあげよう」などというのは、被害者を2重の被害にあわせているだけなのです。国家は被害者の自力救済を否定しているわけですから、被害者が自然権上持っている応報権を確実に満たしてあげる必要があるのです。
(懇話休題。以前、憲法を勉強している後輩とこの「自然権上の応報権」の話をしたときに「そんな権利、聞いたことがない」と言われてしまった事があるのですが、聞いたことがあるかどうかと自然権上認められるか否かは別の話で、「自然権=自然法に基づく権利」、「自然法=政府による介入無しでも社会が社会として維持されるために必要とされる規範」と定義すれば、応報権を自然権として認めないと社会が反規範的勢力のせいで崩壊してしまうわけです。ちなみに、法学部での自然法学習の弱さについては、法定犯と自然犯の区別がつかないことを特に非難されないことでも見て取れるのですが、法定犯と自然犯とでは、特に法の不知に関して非難の度合いが変わってくるはずです。)

さて。「なぜ過失犯まで重罰化されてしまったのか?」について考えて見ましょう。僕の考える原因は2つです。
1)エリート主義の放棄
 法律家は法律についてのエリートであるのに、国民の感情に迎合してしまっている。一見民主主義的だが、エリートとしての責任の放棄ではないのか?エリートが十分に国民に説明して、十分に考えた後の感情でないなら、尊重する必要がどれだけあるのか疑問である(もちろん、このように考える場合、エリートの側には国民に説明していく義務がある。そう考えない場合、国民の側はエリートに対して強い反感を持ってしまう。)
2)抽象的符号説を否定している
 たとえば、飲酒運転で死亡事故を起こした場合に該当になる(場合がある、ということになりますが)危険運転致死罪は、かなりの重罰です。過失犯であるにも関わらず、たいていの故意犯の犯罪よりも重く罰せられる。「人が死んでいるから重く処罰するんだ」というと一見納得できそうですが、過失致死罪は一番重くても罰金刑。だから、やはり反規範性の強さが処罰の重さにつながっていると考えるべきです。はっきり言えば「飲酒運転しているんだから、死亡事故を起こすことを容認しているんでしょ?」っていうことで、未必の故意を認めているのだとおもうのです。これって、抽象的符号説ですよね?でも、一般に今までガンガン批判してきた抽象的符号説を正面から立法化しましたとは言いにくい。だから、「全部重罰化している」としているのでしょうが、詭弁です。でも、別に判例変更したわけではないから(それこそ、変更していないから危険運転致死罪が立法化されたわけですし)、結果パッチワークのような法律運営になっているように見えます。

ここで、「友愛」の概念を持ち出してみると…「誰を(より重視して)いたわってあげる必要があるのか?」という視点が出ると思うのです。その上で、「本当に今後も法定的符号説を採るべきなのか?」「過失犯まで重罰化すべきなのか?(抽象的符号説を採ればスッキリするのではないか?)」といったことを真剣に考えるべきなのではないか、と思います。


え〜…もう寝なくてはいけないので、中途半端な感じですが(特に、いろんなタームの説明を端折っているし…)、とりあえず今日はこんな感じで筆を置きます(これじゃタダのメモだ…)。
posted by ベドウィン・ピエロ at 01:31| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

ヴィトゲンシュタインって凄いんだろうか?

(以下、哲学に興味がない方にはまったく面白くない日記になります。)

「ヴィトゲンシュタインって凄いんだろうか?」って書くと「凄いに決まってるだろ!」って叱られそうですが。
ヴィトゲンシュタインも、トマス=アクィナスも、デカルトも、みんな同じことを言っている気がするのです。要は、「どこまでは思考の根拠があって、どこで思考の根拠についての追求を停止しなくてはいけないのか?」という話で、その根拠をさして、ヴィトゲンシュタインは習慣といい、アクィナスは神といい、デカルトは思考している自分という。結局は「この辺で終わっとこうや」って話では?と思ってしまう自分は哲学に向いてないんでしょうね。
実は、この問い、年賀状で3人の方に質問したのですが、まだ返事をいただいていなかったのです。で、日曜日に結婚式の2次会でそのうちの1人に面と向かって質問したところ、どうせ結婚式で会うからそのときに回答しようと思っていたとのこと。
で、彼の回答は、やっぱり違うというもの。現代から見たら同じに見えるかもしれないが、神を克服したのは大きい、と。
そこで、こう喰い下がってみました。「神を殺したのは、ヴィトゲンシュタインではなく、ニーチェとキルケゴールでしょ?」
彼曰く、神は死んだのではなく、身近に降りてきただけではないか、と。ま、それは本題ではないのですが、いずれにせよ、彼によれば古代ギリシャのプロタゴラスを超えた人はまだ出ていなくて、プロタゴラスの掌の上をみんながゴチャゴチャこねくり回しているだけ、と。

ここまで来ると、ド素人の僕ではまったく話に太刀打ちできなくなりました。プロタゴラス、「万物の尺度は人間である」っていう相対主義でとても有名ではありますが、この言葉以外に僕には情報はほぼ0。時間を作って古代ギリシャの哲学についての本を読み返してみる必要がありそうです。

結婚式から帰って家でかみさんにこの話をすると、「よくそんな話が出来るもんだねぇ」と感心されました。
かみさん、大学の哲学科を出ているんですけど…。(俺、完全に独学だよ???)
posted by ベドウィン・ピエロ at 21:04| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人生初→大失敗

この日曜日、友人の結婚式に参加しました。
実は僕が縁で知り合った二人だったので、友人代表のスピーチをさせていただいたのですが

結果は惨憺たるもの。
結婚式でスピーチするのは人生初だったのですが、男性側の代表だから笑いを取っていかねば、と思ったのが失敗の元でした。緊張して頭の中が真っ白になってしまったし。5分くらいで、と思っていたのも、完全にオーバーしたし。
歌を歌うんだったら、1000人くらいの前でも多分全然平気なのですが。

お二人を心から祝福したかったのですが、かえって足を引っ張ってしまったなぁ…。G、Rちゃん、ごめんなさいね。
無理をしないで紙を読み上げつつ、普通にスピーチすれば良かったなぁ…。
posted by ベドウィン・ピエロ at 20:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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