2009年04月25日

先週の日記について再考。

先週の日記を、お二人書き込んでいただいてまともにお返事しないまま1週間温めてみました。

1)「過失犯が重罰化されている」ことについての母数
エファさんのご指摘どおり、確かに過失犯についての重罰化のケースの母数が足りないかもしれません。交通事故の話と、滝川市の生活保護詐欺被害側(=滝川市職員)に対する刑事立件(断念したけど)くらいの話なので。滝川市のケースは、僕から見たら「過失事件の被害者を背任の故意犯にでっち上げてまで社会に迎合しようとする検察」の事件にしか思えないけど、一応故意犯として扱うべきなのかもしれないし(検察が本気で捜査していたのだとしたら、レベルが落ちているとしか言えない)。

2)結果無価値だと考えたら重罰化と言えないのではないか?
まぁ、確かに日本の「行為無価値」は世界では「行為無価値よりの結果無価値であって、あくまで結果無価値の一変種」だという話は聞いたことがあるのだけど、一応判例は行為無価値で考えるってことでよかったのではなかったっけ?(司法試験組が、勉強を重ねるごとに次々に行為無価値を捨てて結果無価値に走って行ったのは数多く見ているけど。)
結果無価値だと今回の判決が重すぎではないとしたら、「不幸な人間(人を殺したくないのに過失で殺してしまった人間)を、より不幸にする(=重罰に処する)考え方である」ってことで、結果無価値の考え方は否定されるべきだと思うのだけど…まぁ、結果無価値の論者の方から見ると「過失犯の犯人が不幸か否かは関係なくて、結果だけを見て裁けばいいんだ」と言うのでしょうね。この部分を論駁するためには、メタレベルで話をすることがやはり必要になるのかもしれません。「友愛」の概念からそれが出来るような気がします(もっと練らないといけないけど)。
ちなみに、今回取り上げたケースは、普通の路地だと思っていたら、そこに幼稚園の行列があったために被害が極端に大きくなったわけで、通常の予測の範囲から言えば、結果無価値の視点から言っても被害者がそう多くないケースを元に考えることも出来るんじゃないかな、って思ったりもしました。だから「結果無価値ですらなく、単なる結果責任なんじゃない?」と。まぁ、「閑静な住宅街の路地だからこそ、幼稚園の行列などが頻繁に歩いているはず」ってことが言えるなら別なのだけど(そして、それを何の統計もなしに裁判官の思い込みで「ある」とか「ない」とか言い切るのが「こんなのソクラテス裁判の延長じゃないか」と思うのだけど。)

3)過失事件での被害の大きさと行為無価値
過失事件で被害が大きかった場合に、それが規範違反の程度が大きかったためであれば処罰が重くなるのは当然だと思います。たとえば、通常誰も通らない山道を制限速度100キロオーバーで走って5名の死者を出す人身事故を起こした場合と、午前8時ごろのスクールゾーンを100キロオーバーで走って5人の死者を出す人身事故を起こした場合とでは、明らかに後者のほうが罪が重くなると思います。ただ、結果無価値でも「被害発生の危険を惹起したことが処罰根拠」だと思っていたのですが違ったっけ?(そうだとしたら、行為無価値と結果無価値とであまり変わらなくなると思うのだけど…。)

4)自動車政策の遅れをカバーする法制としての重罰化
僕としては「不幸な者をより不幸にする」政策には反対です。「100%ミスをしない人間」なんてのは居ないわけで、重罰化しても事故は減らないと思う。それよりも、既に一部の国産高級車で使われ始めているソナー装置の全車種義務化とか(きっとアメリカが反対するんだろうけどね)、ハンドルを握らずに済む様な公共交通機関の整備とか(自動車業界から波及する不況が発生しそうだが)、何か別の方策でやるべきなんじゃないかな、って思うのだけど、いかがでしょうか?

5)カントと応報
量刑の歯止めのための応報刑、ですか。そこまで勉強しておりませんでした。
時間を作って勉強しなおします。正直、恥ずかしい…。




以上、正直いろいろと穴のある日記を書いてしまったけれども、そのせいで、パソコンを触れない平日の間ときどき考えることになって、ちょっと考えが深まったかもしれません。最近、「平成経済20年史」という新書(幻冬舎新書103/紺谷典子)を読んでいたのだけども、それを読みながら次に打つべき一手を考えているとき、友愛の概念が割とずっと頭によぎっておりました(しばらく追求しようと思っております…日記に書けるレベルまで行けるか分からないけど)。
posted by ベドウィン・ピエロ at 00:56| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月18日

刑事裁判の重罰化とfraternty(友愛)

とタイトルで書いたところでスペルを間違っているような気がしますが。
大学のときに国際統合と民族紛争(正確には「国際統合による民族風葬の解決」)について勉強していたとき、友愛の概念の重要性に気がついたのですが、刑事裁判での重罰化の流れを考えていたときに、ふと友愛の概念の重要性を思い出しました。

まず、今のままでは刑事裁判での重罰化の流れはいつか揺り戻しが来てしまいます。なぜかというと、すべき重罰化の方向を間違っているから。
今の刑事裁判では、「故意犯と過失犯では違う」という根本的な部分が無視されているのです。重罰化すべきだったのは今まで被害者を無視して軽くしてきた故意犯についてのみ。過失犯については、重罰化してはいけないのです。
なぜか?
それは「人間、誰でも過ちは犯すから」。刑罰について考えるときには、既に使い古された言葉です。
では、なぜ故意犯では重罰化すべきなのか?この辺を考え出して、「あぁ、結局は友愛の概念の問題なのだ」と気がついたのです。

過失犯を裁くときには、過失犯もある意味被害者であることを忘れてはいけません。もちろん、責められるべき部分があって、だからこそ刑罰を受けるのですが、社会構成員皆が「明日は我が身」なのです。
一方、故意犯については、「明日は我が身」になるのはあくまで被害者として。大学の授業では人間いつ加害者になるかもしれないというような話を前提にしているのですが、通常は故意犯の加害者にはなりません。もちろん、複雑な生い立ちがあって人格が破綻してしまって…というようなケースはあると思いますが、社会構成員の総体として甘く判断してあげるべきと思うケースについては個別に救ってあげれば良い訳で、「一般的に赦してあげよう」などというのは、被害者を2重の被害にあわせているだけなのです。国家は被害者の自力救済を否定しているわけですから、被害者が自然権上持っている応報権を確実に満たしてあげる必要があるのです。
(懇話休題。以前、憲法を勉強している後輩とこの「自然権上の応報権」の話をしたときに「そんな権利、聞いたことがない」と言われてしまった事があるのですが、聞いたことがあるかどうかと自然権上認められるか否かは別の話で、「自然権=自然法に基づく権利」、「自然法=政府による介入無しでも社会が社会として維持されるために必要とされる規範」と定義すれば、応報権を自然権として認めないと社会が反規範的勢力のせいで崩壊してしまうわけです。ちなみに、法学部での自然法学習の弱さについては、法定犯と自然犯の区別がつかないことを特に非難されないことでも見て取れるのですが、法定犯と自然犯とでは、特に法の不知に関して非難の度合いが変わってくるはずです。)

さて。「なぜ過失犯まで重罰化されてしまったのか?」について考えて見ましょう。僕の考える原因は2つです。
1)エリート主義の放棄
 法律家は法律についてのエリートであるのに、国民の感情に迎合してしまっている。一見民主主義的だが、エリートとしての責任の放棄ではないのか?エリートが十分に国民に説明して、十分に考えた後の感情でないなら、尊重する必要がどれだけあるのか疑問である(もちろん、このように考える場合、エリートの側には国民に説明していく義務がある。そう考えない場合、国民の側はエリートに対して強い反感を持ってしまう。)
2)抽象的符号説を否定している
 たとえば、飲酒運転で死亡事故を起こした場合に該当になる(場合がある、ということになりますが)危険運転致死罪は、かなりの重罰です。過失犯であるにも関わらず、たいていの故意犯の犯罪よりも重く罰せられる。「人が死んでいるから重く処罰するんだ」というと一見納得できそうですが、過失致死罪は一番重くても罰金刑。だから、やはり反規範性の強さが処罰の重さにつながっていると考えるべきです。はっきり言えば「飲酒運転しているんだから、死亡事故を起こすことを容認しているんでしょ?」っていうことで、未必の故意を認めているのだとおもうのです。これって、抽象的符号説ですよね?でも、一般に今までガンガン批判してきた抽象的符号説を正面から立法化しましたとは言いにくい。だから、「全部重罰化している」としているのでしょうが、詭弁です。でも、別に判例変更したわけではないから(それこそ、変更していないから危険運転致死罪が立法化されたわけですし)、結果パッチワークのような法律運営になっているように見えます。

ここで、「友愛」の概念を持ち出してみると…「誰を(より重視して)いたわってあげる必要があるのか?」という視点が出ると思うのです。その上で、「本当に今後も法定的符号説を採るべきなのか?」「過失犯まで重罰化すべきなのか?(抽象的符号説を採ればスッキリするのではないか?)」といったことを真剣に考えるべきなのではないか、と思います。


え〜…もう寝なくてはいけないので、中途半端な感じですが(特に、いろんなタームの説明を端折っているし…)、とりあえず今日はこんな感じで筆を置きます(これじゃタダのメモだ…)。
posted by ベドウィン・ピエロ at 01:31| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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