2009年04月18日

刑事裁判の重罰化とfraternty(友愛)

とタイトルで書いたところでスペルを間違っているような気がしますが。
大学のときに国際統合と民族紛争(正確には「国際統合による民族風葬の解決」)について勉強していたとき、友愛の概念の重要性に気がついたのですが、刑事裁判での重罰化の流れを考えていたときに、ふと友愛の概念の重要性を思い出しました。

まず、今のままでは刑事裁判での重罰化の流れはいつか揺り戻しが来てしまいます。なぜかというと、すべき重罰化の方向を間違っているから。
今の刑事裁判では、「故意犯と過失犯では違う」という根本的な部分が無視されているのです。重罰化すべきだったのは今まで被害者を無視して軽くしてきた故意犯についてのみ。過失犯については、重罰化してはいけないのです。
なぜか?
それは「人間、誰でも過ちは犯すから」。刑罰について考えるときには、既に使い古された言葉です。
では、なぜ故意犯では重罰化すべきなのか?この辺を考え出して、「あぁ、結局は友愛の概念の問題なのだ」と気がついたのです。

過失犯を裁くときには、過失犯もある意味被害者であることを忘れてはいけません。もちろん、責められるべき部分があって、だからこそ刑罰を受けるのですが、社会構成員皆が「明日は我が身」なのです。
一方、故意犯については、「明日は我が身」になるのはあくまで被害者として。大学の授業では人間いつ加害者になるかもしれないというような話を前提にしているのですが、通常は故意犯の加害者にはなりません。もちろん、複雑な生い立ちがあって人格が破綻してしまって…というようなケースはあると思いますが、社会構成員の総体として甘く判断してあげるべきと思うケースについては個別に救ってあげれば良い訳で、「一般的に赦してあげよう」などというのは、被害者を2重の被害にあわせているだけなのです。国家は被害者の自力救済を否定しているわけですから、被害者が自然権上持っている応報権を確実に満たしてあげる必要があるのです。
(懇話休題。以前、憲法を勉強している後輩とこの「自然権上の応報権」の話をしたときに「そんな権利、聞いたことがない」と言われてしまった事があるのですが、聞いたことがあるかどうかと自然権上認められるか否かは別の話で、「自然権=自然法に基づく権利」、「自然法=政府による介入無しでも社会が社会として維持されるために必要とされる規範」と定義すれば、応報権を自然権として認めないと社会が反規範的勢力のせいで崩壊してしまうわけです。ちなみに、法学部での自然法学習の弱さについては、法定犯と自然犯の区別がつかないことを特に非難されないことでも見て取れるのですが、法定犯と自然犯とでは、特に法の不知に関して非難の度合いが変わってくるはずです。)

さて。「なぜ過失犯まで重罰化されてしまったのか?」について考えて見ましょう。僕の考える原因は2つです。
1)エリート主義の放棄
 法律家は法律についてのエリートであるのに、国民の感情に迎合してしまっている。一見民主主義的だが、エリートとしての責任の放棄ではないのか?エリートが十分に国民に説明して、十分に考えた後の感情でないなら、尊重する必要がどれだけあるのか疑問である(もちろん、このように考える場合、エリートの側には国民に説明していく義務がある。そう考えない場合、国民の側はエリートに対して強い反感を持ってしまう。)
2)抽象的符号説を否定している
 たとえば、飲酒運転で死亡事故を起こした場合に該当になる(場合がある、ということになりますが)危険運転致死罪は、かなりの重罰です。過失犯であるにも関わらず、たいていの故意犯の犯罪よりも重く罰せられる。「人が死んでいるから重く処罰するんだ」というと一見納得できそうですが、過失致死罪は一番重くても罰金刑。だから、やはり反規範性の強さが処罰の重さにつながっていると考えるべきです。はっきり言えば「飲酒運転しているんだから、死亡事故を起こすことを容認しているんでしょ?」っていうことで、未必の故意を認めているのだとおもうのです。これって、抽象的符号説ですよね?でも、一般に今までガンガン批判してきた抽象的符号説を正面から立法化しましたとは言いにくい。だから、「全部重罰化している」としているのでしょうが、詭弁です。でも、別に判例変更したわけではないから(それこそ、変更していないから危険運転致死罪が立法化されたわけですし)、結果パッチワークのような法律運営になっているように見えます。

ここで、「友愛」の概念を持ち出してみると…「誰を(より重視して)いたわってあげる必要があるのか?」という視点が出ると思うのです。その上で、「本当に今後も法定的符号説を採るべきなのか?」「過失犯まで重罰化すべきなのか?(抽象的符号説を採ればスッキリするのではないか?)」といったことを真剣に考えるべきなのではないか、と思います。


え〜…もう寝なくてはいけないので、中途半端な感じですが(特に、いろんなタームの説明を端折っているし…)、とりあえず今日はこんな感じで筆を置きます(これじゃタダのメモだ…)。
posted by ベドウィン・ピエロ at 01:31| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 過失犯の重罰化の傾向ですが、危険運転致死傷罪以外の例ってあるのでしょうか? 一般論的に話をきりだしている割には、具体例として出ているのが危険運転致死傷罪のみなので、違和感を感じてしまった次第で。

 危険運転致死傷罪は、ベドさんもおっしゃるように「飲酒運転・危険運転は交通事故を起こして死傷する未必の故意があった」とみなしているのでしょう。 道交法違反の故意と過失致死傷罪の観念的競合、というのは仰るとおりではないかと。
 考え方を変えると危険運転行為は多数の死傷者を出しうる行為。 だから、「危険運転致死」を重く罰して、致死の結果が出なかった場合には軽めに処罰する、のようなことは考え得ないでしょうか? ・・・まあ無理か。


 ちなみにフラタニティはfraternity
 懇話休題は閑話休題ではないかと。
Posted by Effandross at 2009年04月18日 21:08
 ベドヰン氏の意見、総論としては理解できます。重罰化からの単なる揺り戻しが起こるのでは宜しくないと、この部分は同感です。ただその揺り戻しへの危惧は自分は余り強くはありません。
 
 つーか、単なる重罰化も必要だと思うよ。懲役刑で言えば、15年だか20年の次が無期だってもの、この長寿の時代にまずいでしょう……あれ? これはもう現実的な数字になったんだっけ。まあアメリカみたいに足し算で何百年の刑にしろ、とまでは言わないけれどね。
 どうせ模範囚だ何だで大抵は実際の量刑よりも早く出てくるんだから、サバ読んで長目に入れておくくらいで丁度良ーよ。
 ……と、理屈も人権もヘッタクレもなく書いてみたが、まあこれが市民感情ってやつだ。そして確かに法律家からも理論的な反論は聞かないが、それは市民に迎合してるのではなく、専門家の理屈も案外、道筋は違っても同じ結果になってるんでないかい?

 実際、量刑決定の段階で故意と過失は厳密に区別されていると思います。少なくとも報道で聞くような比較的大きな事件などでは(……実はそうでもないのでしょうか?)。
 全体的に重罰化が進んでも、例えば当社比+20%的な考え方をすれば、故意と過失との相対的な量刑差がバランスを保っているなら良いのではないでしょうか。
 そのような過失に対する軽減的な部分を(またはその逆を)、友愛的な発想から下支えしようとする思考的試みとして、今回の考察を解釈した次第です。
Posted by QED at 2009年04月19日 01:10
連投スマソ。

 あとは用語として気になった点を以下に少し(自分の無理解等もあると思いますので、不適切、または誤まった考え方かも知れませんが)。

「応報権」という考え方は発想としては自然ですが、近代以後には余りなじまないと思います。自分は法学には詳しくないですが、確か西洋での刑事罰の概念は、被害に対しての応報的な側面を取り除くように形成されていったはず。

 ミシェル・フーコー(歴史学者……法学者ではない)によれば、刑罰とはあくまで違法に対する国家からの懲罰である、ということだったと思います。実際、刑事と民事が区別されているのもそのためでしょうし、応報的側面は従って民事での賠償の形になるでしょう。

 重罰化があくまで刑事上のものであるのなら、そして揺り戻しも刑事上に限られるなら、応報の問題はここでは直接には関与しないと思われます。同様に、故意か過失かによって量刑に差が出るのも、応報のためではないことになります。
 その上で、にも拘らず故意と過失とに量刑差があるとすれば、その根拠は何か。この点で友愛的なものもそのひとつとして考慮に入れるのは、自分も妥当な考え方だと思います。
Posted by QED at 2009年04月19日 01:12
更に連投スマソ。

ベドヰン氏による本文2行目、「国際統合による民族風葬の解決」は「民族紛争」ですね?

訂正とともに、合わせてこのコメントの削除もお願いします。
Posted by QED at 2009年04月19日 01:15
>エファさん
コメント、どうもです。
書き間違いのところ、ご指摘ありがとう。「i」を書くの忘れてた…。心配していたのは、「fraternity」なのか「flaternity」なのか、だったのだけど(泣)。
閑話休題は、確かそうだと思っていたのだけど、パソコンで打ってみたら出てこなくて「あれ?記憶違いか?」と。合ってたんだねぇ(遠い目)。
なにぶん、1時過ぎに打っているってことで、大目に見てくださいませ。


で、過失犯の重罰化について。
幼稚園児の列に車が突っ込んで3人だったか5人だったかが死亡した事故があったのだけど、一審の裁判官が5年満額の判決を出したのね。その上で、「本当はもっと重い処罰をしたかったのだけれども、法律上これ以上は出来ない」というコメントをつけています。
事故の原因が、「速度規制をしていなかった住宅街で、トイレを探して50キロで走っていた」ってこと。
確かに、幼稚園が児童を連れて歩くくらいの住宅街で50キロ出したのは間違っているだろうけど、少なくとも速度違反はしていない。明確に法令違反の唯一の事故原因はわき見のみ。それで5年満額は異常だと思わん?結局、結果が幼稚園児の命(3人だったか5人だったかだと記憶しているのだけど)だと、わき見運転のみで「5年でも足りない」って話になるご時勢になってしまったのさ。
まぁ、「行為無価値→結果無価値」の流れの一環なのだったら僕の話は完全に勘違いなのでしょうけど。(むしろ、結果無価値ではなく単なる結果責任だと思うんだよねぇ。それって、刑法が規範を守らせるための法律だってことを忘れてしまっているような気がするんだけど。)

(※ この下の部分は、チト話が脱線しております)
他にも、滝川市が生活保護を騙し取られたケースでも、検察は被害者であるはずのケースワーカーを逮捕・起訴しようとしていたのね。被害を訴え出ると職員はみんなして給与をカットされることになる。だったら被害を受けても泣き寝入りすべきってことになるわけだけど、公益通報制度を作ったのは国ではないの?通報したら刑罰を受ける危険性が出てくるんじゃん、少なくとも給料減らされるんじゃん、嘘つき!って。
って、滝川のケースはちょっと脱線してしまったけど、そのうち日本に帰ってきて、小さなニュースまで見るようになったら、ひどくギスギスした社会になったなぁ、って思うと思う。滝川のケースも、犯人から見たら逆に「今まで、こういうのってわざわざ警察沙汰になんてしてなかったジャン、意地悪!」ってところかもしれない。滝川の事件以降、ドンドン警察沙汰になるようになってきました。
フランスのトリコロールで表現されている「自由・平等・友愛」のうち友愛ってのが重要で、「自由民主主義」と言っても自由主義は社会がアトム化する傾向につながり、一方で民主主義は全体主義につながって、結局それだけではどちらも社会がギスギスすることになる、自由民主主義は極端に走って弊害が出るのを防ぐ意味もあるのだろうけど結局は社会がギスギスするのを避けられない、居心地のいい社会を作り活性化させるためには友愛の概念を重視して、制度や法律(含:判例)を作っていく必要があるんだ、ということを今日の日記で改めて書きたかったのだけど…既に予定の睡眠時間を1時間半過ぎているので、今日はもう寝ます。平日は多分パソコンを触らないのだけど、何とか次の土曜日にまた書き込みできると良いのだけど…。
Posted by ベドウィン・ピエロ at 2009年04月19日 01:34
>QEDさん
コメント、ありがとうございます。
今日はもう寝ようと思うので、また来週修正させていただくとして、1点だけ。
応報権、今は大学で主張しても多分白眼視されると思うのですが、カントの時代ではまだ刑罰の本質は応報であるとされていたはずです。前期旧派→新派→後期旧派の流れの中で前期急派は応報を重視、新派は教化を重視、だったかと思うのですが(違っていたらごめんなさい)。
自然権を持ち出したのは、応報を軽視する流れに逆らうためだったのですが、とりあえず今日は寝ます。ごめんなさい!
Posted by ベドウィン・ピエロ at 2009年04月19日 01:41
あー、確認しますた。
カントあたりは確かに応報ですね。

幾らか調べてみましたが、応報的な概念は量刑が無際限になることを防ぐ意味で導入されていること把握しますた。
ひとまずご報告まで。
Posted by QED at 2009年04月20日 10:46
>明確に法令違反の唯一の事故原因はわき見のみ。それで5年満額は異常だと思わん?

 さび付いている法律知識を引っ張り出しているので確認しながら書きますが。

 行為無価値の観点から言ったら「わき見」x1の処罰が5年というのは厳しいんでないかい?ってことだよね?
 結果無価値の観点から言ったらわき見運転による「死傷」x5、ということになるのかな?

 ・・・厳しいとも異常とも思わないのだが。


 わからなくなったけど、行為無価値の観点では複数の人を過失致死した場合、観念的競合によって量刑が増加することも否定しているのかな?




 自動車関連について正直なところを言うと、厳罰化は推奨してしかるべきだと思う。 自動車社会化はこれ以上加速することはないものの歩行者の安全対策は不十分なまま置き去りにされている。 十分な安全対策をするためのインフラ整備は金銭的・土地面積的な問題で間に合っていない、という状態を鑑みると、厳罰化以外の安全性を向上させる方策が少ないのではないのだろうか?
 もちろん、これは法学的な議論ではなくて法制的な議論だとは思うけれど。
Posted by Effandross at 2009年04月20日 12:56
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。